80歳でステーキを食べるために。私がインプラントより予防を選ぶ理由

実は、「歯医者は歯が痛くなってから行く場所」だと思っていませんか?

もしそうだとしたら、それはあなたのせいではありません。日本ではずっと、そう刷り込まれてきたからです。けれども、その常識のままでは、80歳になったときにステーキを噛める可能性は、ぐっと低くなります。

申し遅れました。柏木健介と申します。都内で「柏木デンタルクリニック」という小さな歯医者の院長をしている、44歳の現役歯科医師です。実は私自身、子どものころは大の歯医者嫌いでした。10歳のときに虫歯を隠して放置し、永久歯の神経を抜く激痛と恐怖を味わったのが原点です。「なぜもっと早く、歯の守り方を教えてくれなかったのか」。あのときの理不尽な思いが、いま予防歯科をやっている理由のすべてです。

この記事では、現役の歯科医師である私が、なぜ「インプラント」ではなく「予防」を選ぶのか。その理由を、できるだけ専門用語を使わずにお話しします。読み終わるころには、あなたが今夜やるべきたった一つのことが見えているはずです。

「歯医者は痛くなったら行く場所」という思い込みが、未来の歯を奪う

私たち日本人は、なぜか歯のことになると、ほかの臓器とまったく違う扱いをします。心臓や肝臓は健康診断で調べるのに、歯だけは「痛くなったら駆け込む」場所だと思っている人が、いまだに大半です。

元・歯医者嫌いだった私が、予防歯科に目覚めた瞬間

私はもともと、大学病院でインプラントの技術を磨いていた歯科医師でした。「失った歯を取り戻す高度な治療」に魅力を感じていた時期があります。

けれども、ある患者さんとの出会いで考えが変わりました。歯ぐきはぼろぼろ、残っている歯もぐらぐら。それでも「インプラントを入れてください」と希望されてきた60代の男性です。私は正直にお伝えしました。「このままインプラントを入れても、土台の地面(歯ぐきと骨)が崩れているので、砂の上に家を建てるようなものです」と。

家を建てる前に、まず地面を整える。それが当たり前なのに、歯科医療では「壊れたところに、新しい部品をはめる」ばかりが優先されてきた。それに気づいた瞬間、私は予防歯科の本場・スウェーデンへ短期留学を決めました。

スウェーデンで見た「歯科医院は虫歯を治す場所ではない」という常識

スウェーデンでは、1970年代から国を挙げて予防歯科に舵を切りました。その結果、現在では国民の約9割が定期的に歯科検診を受けています。一方、日本で定期検診を受けている人は5%にも満たないと言われています。

下の表を見てください。スウェーデンと日本で、80歳の口の中はこれだけ違います。

項目日本スウェーデン
80歳の平均残存歯数約15.6本約21.1本
85歳の平均残存歯数約8本約25本
国民の定期検診受診率5%未満約90%
歯科保険制度治療中心23歳まで予防が無料

数字を見て、ぞっとしませんでしたか。日本の85歳の方は、平均でステーキを噛むには心もとない本数しか歯が残っていません。けれどもスウェーデンの85歳は、ほぼフルメンバーで歯が残っている。これは民族の差ではありません。「予防に通うか、治療に通うか」のたった一つの違いです。

日本人の80歳の平均残存歯数を知っていますか?

日本でも「8020運動」というスローガンがあります。これは1989年に厚生労働省と日本歯科医師会が始めたもので、「80歳で20本以上自分の歯を残しましょう」という目標です。詳しくは日本歯科医師会の8020運動の公式ページが参考になります。

この運動が始まったころは、達成率はわずか7%でした。それが2022年の調査では51.6%にまで上昇しています。素晴らしい進歩です。けれども、裏を返せば、今でも80歳の方の半分は20本も歯が残っていないということ。さらに「20本残っていればOK」というのは最低ラインの話で、ステーキをしっかり噛むには、もう少し本数が欲しいのが本音です。

なぜ、私はインプラントより予防を選ぶのか

「先生、それでもインプラントがあるじゃないですか」。クリニックでよく聞かれる質問です。たしかにインプラントは、現代歯科医療が生んだ素晴らしい技術です。私自身も、本当に必要な患者さんには勧めます。けれども、第一選択にはしません。理由を3つ、お話しします。

インプラントは「失った歯の代わり」に過ぎない

インプラントは「人工の歯」です。これを車に例えるなら、エンジンを丸ごと新品に交換するようなもの。たしかに動くようにはなります。でも、新車のときの調子に完全に戻るわけではありません。

しかも、インプラントを入れた後も、ご自身でのケアと定期メンテナンスは絶対に必要です。サボれば「インプラント周囲炎」という病気になり、最終的にはインプラントが抜け落ちます。「入れたら一生もの」という宣伝は、半分本当で半分嘘です。

削った歯は、もう二度と元には戻らない

これが一番、皆さんに知ってほしい事実です。

歯は、削れば削るほど寿命が縮みます。

虫歯を削って詰め物を入れた歯は、平均して5〜10年で再治療が必要になります。再治療のたびに、また少し削る。そしてまた数年後に再治療。これを繰り返すうちに、神経を抜くしかなくなり、最終的には抜歯。これを歯科業界では「歯科のメタル・スパイラル」とも呼びます。

家のリフォームを想像してください。リフォームのたびに壁を壊していたら、いずれ家そのものが立たなくなる。それと同じです。だから私は「最初から壁を傷めない」ことを最優先にしているのです。

歯を一本失うと、隣の歯も連鎖的に弱る

歯は28本(親知らずを含めれば32本)が、お互いに支え合って並んでいます。例えるなら、地下鉄の混んだ車内で、ぎゅうぎゅうに立っている乗客のような状態です。

この中の一人がいなくなったら、どうなるでしょうか。隣の人がぐらつき、向かいの人も体勢を崩します。歯も同じです。一本失うと、隣の歯は空いたスペースに倒れ込み、噛み合わせの相手の歯は伸びてきて、全体のバランスが崩れていきます。

つまり、最初の一本を失った瞬間から、雪崩のように歯が弱っていく。これが「失った後では遅い」という意味です。

80歳でステーキを噛むための「3本柱」

ここまで読んで「で、結局どうすればいいの?」と思っているかもしれません。安心してください。やることは、たった3つです。

第1の柱:ホームケアは「家の毎日の掃除」

毎日のあなた自身のケア、これが基本です。家に例えるなら、毎日の掃除機がけのようなものです。どれだけプロがハウスクリーニングをしても、毎日の掃除をサボれば、家はあっという間に汚れます。

具体的には、次の3つを揃えてください。

  • フッ素入りの歯磨き粉(フッ素濃度1450ppmが最大濃度。市販品にも増えてきました)
  • デンタルフロス(糸のようなもので、歯と歯の間の汚れを取る道具)
  • 歯間ブラシ(歯と歯の隙間が広い人向けの、小さなブラシ)

ある研究では、歯ブラシだけでは歯垢(歯の表面についた細菌のかたまり、つまり「歯の垢」)の61%しか取れないことが分かっています。フロスを併用すると79%、歯間ブラシも加えると85%まで上がります。歯ブラシだけだと、4割も汚れが残っているのです。

第2の柱:プロケアは「年1回の家の点検」

どれだけ家を大事に住んでいても、年に一度はプロの大工さんに点検してもらう。それと同じで、3〜6ヶ月に一度は歯科医院でクリーニングを受けてください。

歯科医院で行う「PMTC」というクリーニングは、ご自身では絶対に取れない歯石(歯垢が固まって石のようになったもの)を取り除く施術です。歯石は歯ブラシでは絶対に落ちません。これは家の壁にこびりついた長年の汚れと同じで、専用の機械でしか削れないのです。

ちなみに保険診療でも、3ヶ月に一度のメンテナンスは可能です。費用は3000円前後。コーヒー1ヶ月分で、80歳のステーキを買えると思えば、安いものです。

第3の柱:食生活は「家の壁を傷めない使い方」

歯は、毎日「酸」によって少しずつ溶けています。これを「脱灰」と言います。食事のたびに口の中は酸性になり、歯の表面が溶ける。けれども、唾液がそれを中和して、溶けた成分を歯に戻してくれます。これを「再石灰化」と言います。

唾液は、いわば「家の自己修復機能」のようなもの。けれども、この機能には限界があります。

ダラダラと甘いものを食べ続けたり、ジュースをちびちび飲み続けたりすると、口の中はずっと酸性のまま。修復が追いつかず、歯はどんどん溶けていきます。詳しくは厚生労働省のe-ヘルスネット「歯・口腔の健康」に分かりやすくまとまっているので、ぜひご覧ください。

おやつを食べるなら、ダラダラ食べずに「時間を決めて、メリハリ」がポイントです。

ズボラでも80点取れる、夜のセルフケア5分ルーティン

「先生、忙しくて毎日完璧なケアなんて無理です」。よく分かります。私も実は大の甘党で、新作のコンビニスイーツを見つけるとつい買ってしまうタイプです。完璧な人なんて、世の中にいません。

そこでクリニックで実際にお伝えしているのが「ズボラでも80点取れる、夜の5分ルーティン」です。

なぜ「夜だけ完璧に」がベストなのか

朝・昼・夜のうち、もっとも大切なのは夜寝る前です。理由はシンプルで、寝ている間は唾液の量が激減するからです。

唾液は口の中の細菌をやっつけてくれる「消防車」のような存在。昼間は消防車が常にパトロールしているので、多少汚れていても被害は小さい。けれども夜は消防車が休む時間。そこに汚れが残っていると、火事(虫歯・歯周病)が一気に広がります。

つまり、朝と昼は適当でも、夜だけは完璧にやる。これが最も費用対効果の高い戦略です。

5分ルーティンの具体的な手順

私が実際に毎晩やっているのは、次の手順です。

  1. デンタルフロスで歯と歯の間を全部通す(約2分)
  2. 歯間ブラシで奥歯の隙間を掃除する(約30秒)
  3. フッ素入り歯磨き粉をたっぷりつけて、優しく磨く(約2分)
  4. 最後は軽く一回だけ、口をゆすぐ(うがいをしすぎない)

ポイントは最後の「うがいをしすぎない」です。せっかくつけたフッ素を、ジャブジャブ洗い流してしまうと効果が半減します。少量の水で軽くゆすぐ程度にとどめてください。

よくある勘違いと、その修正法

クリニックで毎日のように出会う「勘違いケア」を、いくつか紹介します。

勘違い真実
強くゴシゴシ磨くほど、汚れが落ちる強く磨くと歯ぐきが下がり、歯の根元が露出して虫歯になりやすくなる
食後すぐ磨くのが正解食後は口の中が酸性。30分待ってから磨くほうが歯を傷めない
朝起きてすぐ朝食をとる寝起きの口の中は細菌だらけ。食前に軽く歯を磨くか、うがいをしてから食べる
電動歯ブラシなら短時間でOK電動でも、当てる場所が間違っていれば意味がない

特に1番目の「強く磨きすぎ問題」は本当に多いです。歯ブラシは、ペンを持つように軽く握って、毛先が広がらない力で動かす。これだけで十分です。

歯を守ることは、全身の健康を守ること

最後に、ぜひ知っておいてほしいことがあります。

歯の健康は、全身の健康とつながっています。これは精神論ではなく、研究でくっきり示されている事実です。

歯周病が糖尿病を悪化させる本当の理由

歯周病と糖尿病は、お互いに悪化させあう関係にあります。これは厚生労働省もe-ヘルスネット「糖尿病と歯周病の双方向性」で明確に示しているほど、エビデンスが強い領域です。

メカニズムを簡単に言うと、こういうことです。歯周病になると、歯ぐきから「炎症物質」というやっかいな物質が血液に流れ出ます。この炎症物質が、血糖値をコントロールするインスリンの効きを悪くする。だから歯周病があると糖尿病が悪化しやすい。逆に糖尿病があると、免疫が下がって歯周病も悪化する。最悪の悪循環です。

歯周病の治療をしっかり行うと、糖尿病の指標である「HbA1c」が改善することも複数の研究で報告されています。歯医者と内科は、本来もっと連携すべきパートナーなのです。

認知症や心疾患との意外な関係

歯周病菌は、血管に乗って全身に運ばれます。動脈硬化を起こした血管の中から、歯周病菌が見つかったという研究もあります。心筋梗塞や脳梗塞のリスクを高める一因にもなり得るのです。

さらに近年は、歯の本数が少ない人ほど認知症のリスクが高まることも分かってきました。「噛む」という行為は、脳に大量の血液を送るスイッチ。歯がなくなれば、そのスイッチが押されにくくなる。つまり脳が刺激不足になり、機能が落ちていきやすい。

一本の歯が、人生の質を大きく左右する

私はクリニックで、80代の患者さんから何度もこう言われます。「先生、もっと若いときに来ていればよかった」と。

その方たちはみんな、若いころは健康そのもの。仕事も家庭もうまくいっていた。けれども歯のケアだけはサボっていた。気づいたときには手遅れで、好きだった食べ物が食べられなくなり、人と笑うことも減っていった、と。

逆に、20年以上私のクリニックに通い続けてくれている70代の患者さんたちは、みんなぴんぴんしています。フランスパンも、ステーキも、固いせんべいも、自分の歯で食べている。旅行にも行くし、よく笑う。歯が元気だと、人生そのものが元気になる。これは比喩ではなく、本当の話です。

まとめ

長い記事を最後まで読んでくださって、ありがとうございました。要点を振り返ります。

  • 「歯医者は痛くなったら行く場所」という常識を、今日で卒業しましょう
  • 削った歯は、もう二度と元には戻りません。だから「削らない」ことが最大の節約です
  • 80歳でステーキを噛むには「ホームケア」「プロケア」「食生活」の3本柱が必要です
  • 完璧でなくていい。まずは「夜だけ5分の完璧ケア」から始めましょう
  • 歯の健康は、全身の健康と直結しています

一生、自分の歯でステーキを食べたくありませんか?

その答えがイエスなら、まずは今夜、デンタルフロスを1回だけ通してみてください。1分もかかりません。完璧な習慣を一気に始める必要はありません。たった1分の積み重ねが、80歳の食卓を守ります。

そして、もし最後に歯科医院に行ったのが半年以上前なら、今週中にお近くの歯医者の予約を入れてみてください。痛くなる前に行く歯医者は、あなたが思うほど怖い場所ではありません。

あなたの口の中という複雑なダンジョンを、一緒に攻略するパートナーが、必ずどこかにいます。